好日 1 それは玉漕の店が休みで、秋めいてきた気温にそろそろ衣を変えようか、という日だった。 「…柑絽あのさ、」 「はい?あ、どれでもお気に召したものだけを選んでいただければ結構なんですよ。」 大きな厚手の布を柑絽が部屋の真ん中に敷いたときから、随分沢山出てくるんだろうなと、確かに更古は思った。 たった今部屋に戻ってきた柑絽の腕の中には、それだけあれば十分すぎると更古が思う程の衣類が詰まっていて、そうやって柑絽はもう五往復も衣類を運んでいるのである。衣裳部屋から、更古の部屋へ。更古の部屋の真ん中に敷かれた清潔な布の上へ。 更古が多いんだろうなと心構えたそれよりも、ずいぶん多い着物の山は専門店の棚の様ですらある。 「もうどれがどれだか、段々違いも分からなくなって来たんだけど……。」 ごめん、と言いつつ、更古はその並べられた着物に視線を転じた。 「更古様から見て、右の二列が長衣です。あとはどれも動きやすい服をお持ちしました。」 これで最後です、と左端に柑絽は今持ってきた服を、胸前がはっきりと見えるように丁寧に並べてくれる。 「じゃあ…。」 ええと、と更古は難しい顔をしてその右の二列を睨んだ。 そもそもの事の起こりは、更古自身の、多少はちゃんとした服も着れるようになりたい、という独り言に近い呟きだった。更古は以前着るだけで苦労した経緯があるが、苦労した甲斐があって、以降一応長衣の着方は分かっているので、この場合の着れるようになりたいというのは、実際の身に纏う仕方を知りたいと言うわけではなく、例えば遊女の着物の様にそれを着慣れて、こなすまではいかなくともある程度身に馴染んだ所作を学んでおくべきかと思ったと言うことなのである。 更古は身の丈に合ったものが好きだ。 けれど、少し背伸びをするように近づくことができるだろうか、とも思うのだ。 ――どれも綺麗な服だなあ。 その並べられた長衣はどれも精緻な刺繍が施されていて、どの色も際立つように濃い。白ですら濃い。 問題なのはなまじ更古に見る目があることなのだ。 「……俺が着たら衣裳が映えないよね。」 と言うことが、一目で分かる。 そしてそれは間違っていない。 別に似合わなくったって構いはしないと思いはすれど、着物一枚で取っ組み合いの喧嘩をするような遊女たちを知る更古なので、似合わないのに高価な服なんて服に申し訳ないと、どうしても思ってしまうのである。 「そうか?」 と少し離れたところから声がして、更古は部屋の奥に視線を転じた。 「煌びやかなものに慣れてないだけだろ。」 「慣れるために使わせていただくのは、なんだか勿体ないんです。」 窓際の椅子には幸陵がいた。まだ昼だと言うのに手元には薄い酒がある――のは、幸陵も今日は休みだからだ。 「着なければまた仕舞われるだけだ。惜しいと思うなら、着てやれよ。」 「そうですよ、服も着られた方が喜びます。」 と柑絽が幸陵の尻馬に乗れるのは、入口付近の柑絽と窓際の幸陵とその距離がある程度あるからで、且つ幸陵の視線と身体が外を向いているからである。 屋敷の主がいる空間に慣れてきたわけではない。証拠に、更古に辛うじて届くような声だった。 そんな風になんとなく及び腰になってしまう癖に、ちゃんとした服をと呟いた更古の声を聞き逃さず、時間がとれる休みの日を逃さずこうして場を作っている柑絽は結構凄いわけだけれど、その賛辞はたぶんうまく伝わらないだろうな、と更古は軽く頬を緩めた。 「何かお気に召すものはありました?」 その笑顔に何を思ったか、柑絽は機嫌よさそうに問いかける。 「そうだなあ……。」 ――気に入る物。 「どれが好きかって聞かれたら、どれも綺麗で好きだけど。」 と更古は一着ずつ視線をずらしていく。 「そういや、好きな色なんてのはあんのか?」 「え?」 何気なく訊かれた言葉に再び視線をあげた。 「…と。」 ――好きな色? 「どうでしょう?」 首をかしげると、椅子から半分身体をねじる様にして幸陵の目が此方を見ている。 ――黒、とか蒼とか……。 「あんまり考えたことなかったです。」 それも本当だけれど、今ふと思い浮かんだ色が照れ臭くて、耳の端が熱いのは気のせいだろうか。 「でも服に使われる色は、着て可笑しくないように考えて作られていると思うので、割とどれも好きかなあと思います。あ、でも白っぽいのは汚れが目立ちそうで気がひけますけど。」 「今の時期なら濃い色も悪くねえな。」 言われて初めて更古は気付いた。 ――そうか、季節感を。 そういう選び方なら出来るかもしれない。自分に馴染んだ物を選んでしまっては意味がないと分かっているのだけれど、似合う物というのは選びようがなく、好きな物をと言われればどれも好きだと思えるから悩んでしまっていたのだ。 「秋っていうと…こんな。」 と更古が手に取ったのは少し暗い赤色――蘇芳の長衣だ。白と黄が絡まる様な緩い螺旋が肩から袖口にかけて刺されていて襟元には柄と揃いの黄の縁が覗いている。 柑絽の促しでそれを肩に乗せてみる。顔映りを気にするのはもっぱら柑絽だから、用意された鏡に向かうでもなく赤い髪を見上げると、なんだか得心が行ったように頷かれて更古は肩の力を抜いた。 「これでいい?」 「もちろん、お似合いになるだろうと思ってお持ちしたんですよ。」 ここに持ってきたものは、どれが選ばれてもいいと柑絽は実は思っていた。更古にその興味がないのは知っていたから、箪笥の中身はもっぱら柑絽が整えて来ていて、だから衣裳部屋にある物のうちでこれはと思う物を密かに見つけ出していた柑絽である。 その分量は些か多いが、それは、仕事に真面目な柑絽とて綺麗な物を見たり選んだりするのは楽しいと言うことなのだろう。 「あ、これ綿入りだ。」 確かめるように衣裳を広げた更古が言った言葉に、柑絽は深く頷いた。 「背中にだけですから、この時期にはぴったりですよ。冬になったらきちんとした綿入れにしますので、案外着られる期間は短いんですが、重くなりすぎず温かくいいお召し物です。今時期に、沢山お召しになってください。」 選美眼がある、とまで思うのは贔屓だろうが、何せこんな風に服を並べるだけでも柑絽は結構楽しくて、幸陵がいるから踏みとどまっているが、今持ってきたどの服も一度あわせてみたいのである。 「他に何か気になる物はありますか?」 「うーん…あ。」 「はい。」 「あの、少し浅い緑の、白い斑が入っている服。」 「こちらですか?」 「うん、それ。」 柑絽から近いところにあったので、屈んでそれを手に取ったのは今度は柑絽だった。彼女の手に乗ったその長衣と持った彼女を見比べて、 「柑絽に、似合うよ。」 「…私、ですか?」 柑絽は一瞬あっけにとられたが、更古は真面目な顔である。 「うん、目が綺麗に見える。」 「えーと…あの、更古様、ご自分の着られるものを……。」 「あ、そうか。ごめん。」 「いえ、いいんですけど。」 「それにこれ男物だね、色は良いけど形が地味だものね。」 「は、いやそういうことではないんですけど、いやあの、ですから更古様の服を選んでいただきたいんです。」 これ以上話題を広げない様にと柑絽はその着物を元に戻した。 これ以上言い募って、更古がうっかり柑絽を余計に褒めてくれたりすると、柑絽だってそのこと自体は嬉しいけれどそうも言ってられないちょっとした恐さは一応ある。それを独占欲と呼んでいいのか、やっぱり柑絽にしてみれば今だ不思議でだから逆に恐しい。 今はこちらを見ているわけではない椅子に座った屋敷の主の後ろ姿を窺って、気に障ることとそうでない事の見極めが今一難しいのだと、柑絽は胸の内で嘆息した。 「はい。」 分かりました、と更古は苦笑する。 それは、柑絽の心配を正確に把握したからではもちろんなく、柑絽の褒められると遠慮がちに照れる素直さをいいな、と思ったからだ。自分のことは棚に上げてるなどど、更古には気付くべくもない。 「じゃあせっかくだからさっきの服と、あとは普段着だよね。なんでもいいけど――」 と一つ選び方を学べば、先を決めるのは更古は早かった。柑絽が思っていた着数の半分しか更古は示さなかったが、それ以上柑絽が求めなかったのは残った部分の服をどうしようかと考えることは柑絽の仕事の一つでもあるからだ。 それもかなり、楽しい部類の仕事である。 |